仏壇通りとは
暮らしに祈りを
祈ることで人は自分を超える存在や
ご先祖さまに
生かされている自分を感じ、
心の安寧や充実を得たり
日々に感謝します。
そういった
失われつつある日本の文化を、
再び暮らしの中に
取り入れてもらいたい。
それが、
神仏具専門店会一同の想いです。
一、浅草寺と寛永寺
上野から浅草に延びる「浅草通り」は、浅草の浅草寺と上野の寛永寺の門前町として栄えました。
その影響からか、神具・仏具・祭具といった宗教用具を扱う業者が多くなったと考えられています。その中でも特に仏壇を取り扱うお店が多いことから、通称「仏壇通り」と呼ばれています。
浅草寺は推古天皇三十六年に隅田川で漁師の網にかかった、約5.5センチの金の観音像を祀ったことから始まり、民の信仰を集めるようになったと言われています。
一方、寛永寺は天海大僧正を師として敬った徳川家康によって建立されました。現在の上野公園や不忍池、谷中墓地などを含む広大な境内に、本堂・東照宮・清水観音堂・不忍池弁天堂・大黒天などがあり、江戸市民の信仰の地として栄えました。
二、仏壇通りのあゆみ
明暦三年(1657年)の振袖大火によって、江戸の町は大きな被害を受けた後、江戸幕府により多くの寺院や神社がこの周辺に集められました。
現在、仏壇通りに立ち並ぶ神仏具店の多くは、大正昭和初期頃にできあがり、太平洋戦争の戦火から復興し、この地で神仏具の販売を続けています。現在の店舗数は四十を超え、日本最大規模の宗教用具専門店街となっています。
ご挨拶
上野・浅草通り神仏具専門店会について
昭和20年3月10日の米軍による東京大空襲で、下町一帯は焦土と化しました。神仏具を扱っていた浅草通りの業者も例外ではありません。辛うじて数軒のお店が戦災を免れた程度で、どの店も廃墟からの復興に必死でした。
既に戦後は終わった。と言われた昭和30年頃、浅草通りの神仏具店で同業者同士という事から親睦会が作られました。数年してお互いに競争相手ではあるが、仕事の目的は同一であると言う共同意識が芽生え、専門店会が結成され、専門店としての切磋琢磨はもとより、更により良い店作りや、サービスの向上、共同広告、などに励んでおります。 仏壇や神棚などの神仏具は、滅多にお求めになる事のない商品ですので、ご理解に苦しむ事やわからない事などがございましたら、お気軽にご相談下さい。
又、このホームページをご覧頂いた皆様から、仏壇店や神具店に対する忌憚のないご意見やご希望をお寄せ頂ければ幸いに存じます。皆様のご期待に応えられるよう、会員一同一層の努力をしたいと存じております。
仏壇通り(上野・浅草通り)の歴史
徳川家康は、天台宗の天海大僧正を心の師として敬い、信長により焼き討ちにされた比叡山延暦寺を再建すると同時に、江戸にも上野の山に「東国の比叡山」とも言うべき東叡山寛永寺を建立しました。寛永寺の所領は現在の上野公園や不忍池、谷中墓地などを含む広大なもので、現在の国立博物館の地に本堂があり、境内には東照宮や清水観音堂・不忍池弁天堂・大黒天などもあり、江戸市民の信仰の地として栄えました。
一方、推古天皇36年に隅田川で漁師に網にかかった、1寸8分(約5.5cm)の金の観音像を祀ったと言われる浅草寺も庶民の信仰を集めるようになりました。
更に明暦3年(1657年)の振袖大火の後、幕府により多くの寺院や神社がこの周辺に集められ、一帯は門前町として栄え、神仏具を扱う業者が多くなりました。
ところが明治維新の1868年、幕府の彰義隊が寛永寺に立てこもり、新政府軍と戦った為、寛永寺の所領の殆どは新政府に没収されて上野公園となり、国立博物館を始め多くの博物館や美術館、音楽堂や芸術大学などが造られ、更に、動物園、水族館、が造られて、上野は日本の文化の発信地として、又、都民の憩いの地として親しまれるようになりました。 特に上野駅が東北の玄関口と言われる様になり、更に昭和初期に東武浅草駅から日本橋・銀座・新橋等下町の中心部を貫き渋谷に至る、地下鉄銀座線が開通するようになって、交通の便の良い上野・浅草通りに仏壇店や神具店が軒を連ねるようになりました。
かみほとけについて
日本人が心のよりどころとして親しんできた「かみさま」「ほとけさま」仏壇通りのロゴマークは、その「かみほとけ」の文字を「祈り」をテーマにデザインしたものです。
祈ることで人は自分を超える存在やご先祖さまに生かされている自分を感じ、心の安寧をや充実を得たり、日々に感謝します。
そういった失われつつある日本の文化を、再び暮らしの中に取り入れてもらいたい。そんな想いが込められたロゴマークです。